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近況 [2009年10月24日(土)]

imgp4951ar-40.jpg


過去記事置き場として放置しながらも、
時々デザインだけ変更してみたりする、
ここはちとオカシナ場所でありますが。
が、今もWEBのあちこちで色々と書き続けておりますので、
ふらっと遊びにきていただければ幸いです。
更新情報などは、↓こちらにて。

officialWebsite mi:media
http://www.mimei.info/

が、最近ではTwitterで呟くことのほうが多いような。
なので、こちらもどうぞよろしくです。

http://twitter.com/TagMimei

というわけで、WEBのどこかで又お目にかかれますように。

あの夏の海 [2008年08月10日(日)]

kaisuiyoku4.jpg

「おとなのコラム」の連載、更新されました。
今回はエッセイ・ノスタルジアの「あの夏の海」
縦書き文庫は、コチラ

先日書いた「真鶴」の事とちょっと重なっておりますが。
あの港を見たときから、書こうと思っていたことなので。
読んでいただけると嬉しいです。

ところで。
このノスタルジアのシリーズは、目次=項目になるように、
できるだけ内容そのままのタイトルをつけているのだけど。
今回の内容は、ひとことでまとめれば「海水浴」。
昔懐かしい海水浴場のことであれば、それでも良いんだけど、
でも、今回のはちょっとトーンが違うものだから、
ううむ、と悩んでしまったり。
タイトルって、ほんとに難しい。

そういえば久世さんはタイトルをつけるのがすごく苦手だったとか。
作品は書上げたものの、全然タイトルが決まらないもので、
編集者に、なんか良いの付けといて、と言ったりしたらしい。
あたしもそんなふうに言いたいことが、ままあります。
内容や文章は勝手に手を加えられたら怒るけど、
タイトルは誰かが良いものに変えてくれるなら、それでOKとか思ったり。
たまに、これタイトルになるな、という言葉を思いついたりするんだけど、
そういうのって何故か書き始めると、うまく進まない。
でも、常に絶妙なタイトルをつけられる人もいるし(江國香織さんとか)、
書く前にタイトルだけ決めておく、という人もいるそうで。
なんでそんなこと出来るんだろう。
ううむ。羨ましい。

みたび、「真鶴」 [2008年08月01日(金)]

dscn8784-32.jpg

写真日記、更新しました。
「みたび、真鶴」

久々に真鶴に行って、
行ってから、川上弘美の「真鶴」のことを思い出して……。
ちょっと、背筋がつつっと寒くなったり。
詳細は↑で(笑)

写真日記は、公式ブログ「トルニタリナイコト」のほうにだけアップしています。
お時間のある時にでも、のぞいてみてね)

キモチを積み重ねる [2008年07月27日(日)]

birthday-30.jpg

24日はミメオの誕生日でありました。
去年は「暦」がぐるりと「還」った年だったから、
今年は、新たな暦においての1歳ということで。
おめでとう、満1歳(笑)

あたしもミメオも夏生まれなものだから、
以前はそれぞれ欲しいものを自己申告し、それを一緒に買いに行って、
プレゼント交換(って子どもか)のようなことをしていたのだけれど。
東京を離れてこの町に越してきてからは、
ふたりとも必要最低限のものがあれば十分と思うようになり、
「何が欲しい?」と訊かれても、特にコレというものが浮かばない。

去年など、あれこれ悩んだ末にミメオが「欲しい」と言ったものは、
なんと「おろし金」。
“おろし金”って、大根とか生姜をおろすアレですよ。
それなら職人さんが手打ちして作る「おろし金」にしようと思ったら、
そんなに高価なものは要らない、と言うし。
そりゃ確かに今は100円ショップでも買えるけど、
誕生日プレゼントに100円のおろし金っていうのも、なんだかねぇ。
(でも実際、100円ショップで買いました・笑)

で、今年はどうする? どうしようか、と相談した結果、
モノを買うよりは、一緒に美味しいものを食べたり、旅に行くほうが良い、
カタチに残るものよりも、記憶に残るものの方が良い、
ということで意見が一致。
なので、今年からは、互いの誕生日にシャンパンを買うことにした。
家で美味しいゴハンを食べながら、シャンパンで乾杯。
で、できれば、折を見てどこかに旅に行く。
そう決めたら、なんだかとても楽になった。
年を積み重ねていくということは、色んなことも積み重なっていくわけで、
だからこそカタチあるものは、必要最低限あればいい。
それよりも、カラダで感じて、キモチを積み重ねていく方が良い。

ということで。
24日はオウチゴハンでシャンパンで乾杯。
が実は、その美味しいゴハンを作ったのは、
誕生日を迎えた当の本人なのでありました。
えへへ。
ほんに美味しゅうございました。
ごちそうさま。

って、なんか違う?

圏内の夏休み [2008年07月26日(土)]

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写真日記を、トルタリの方に載せました。
「圏内の夏休み」

(ここはサムネイル画像のアップができないから、
たくさんの写真を載せるわけにはいかないので、
写真日記は、公式ブログ「トルニタリナイコト」のほうにだけアップしています。
お時間のある時にでも、のぞいてみてね)

書籍化「ばあちゃんのポエム」 [2008年07月22日(火)]

obaachan.jpg

著者:孫(聞き書き) 価格 \880(税込)出版:志學社

超文系サイトテキスポ(http://texpo.jp/)で人気を集めていた、
「ばあちゃんのポエム」が書籍化されるという。
テキスポが立ち上がって間もない頃、 登録された電子本をあれこれ読んでみて、
一番最初に、お!と思ったのが、まさにこの作品だった。
(って、この前書いた「なか杉こう」さんの詩集の紹介の時も、同じような
 ことを書いたけれども。やっぱり、「お」と思わせる何かがある作品という
 のは自然に世に出ていくものなのかも)

「ばあちゃんのポエム」(孫)
http://texpo.jp/texpo_book/toc/514/
これは、著者である「孫」さんがご自分の「ばあちゃん」にお題を出して、
返ってきた言葉を「書きとった」というもので、
それぞれのポエムのタイトルが「お題」になっている。
で、それについて語る「ばあちゃん」の言葉が、二言、三言。
全て「ひらがな」で書かれたそれは、とても短い。
短いのだけれども、それが、なんとも良い味わいなのだ。
例えば。

           「あめ」

    ばあああああってふってくるのはこわいね
    あれどこからふってくるんだろ
    しとしとふるのはきらいじゃないねえ
    まちがしずかになる

           「ぞうきん」

    おばあちゃんぞうきん
    おまえたおる
    みんなぞうきんにならないとおもってるんだよ


読んでいると、
ばあちゃんの表情や姿がふっと浮かんでくるようで、
つい、ふふっと笑ってしまったり、
時には、胸の内側がしんと静かになったりする。
すごいなぁ、このばあちゃん詩人だなぁ、と唸ってしまうこともある。
この「ばあちゃん」自身が魅力のある存在であるのは確かだけれど、
でもそれはやはり、著者である「孫」さんのセンスによるものでもあるのだろう。
聞き取った言葉の掬いあげ方、切り取り方が上手いからこそ、
ばあちゃんの言葉が、胸の中にすとんとまっすぐ落ちてくる。
だからこそ、じわんと心地よい余韻が残る。

今、テキスポで読めるのは今までの作品の一部だけだけれど、
書籍発売後は、また新作をアップしていくそうなので、それも楽しみ。
でもとにかく、まずは本。
きっとWEBとは又ちがった「味わい」があるはず。
ポエムに添えられているイラストも、シンプルであったかくて良い感じだし。
しかも、なんと、定価が880円。
(ばあちゃんは来年米寿なのだそう。末広がりでほんとに目出度い)
これはもう買うっきゃない、ですよね。

書籍「ばあちゃんのポエム」の購入ページ
http://texpo.jp/misc/granma_poem/
ポエムを読んだときに書き込んだコメントをプロモ頁に使っていただいて、
なんだか嬉しいです。
っていうか、こんなことになるのなら、もう少しきちんと書けばよかった。
すみません〜。

---------------- 8×キリトリセン ----------------
今までネットで話題になって大々的に書籍化された本というのは、
なぜか想像力を刺激してくれるようなものが少なくて、
いつも、なんだかなぁ、と思っていたのだけれど。
ようやく、こういう作品が書籍化されて、ほんとに嬉しい。

しかし、このテキスポというサイトが起ち上がってから、
1冊目の本が出るまで早くてびっくり。
ネットってほんとに、誰が見ているか分からない、から、
出会いやチャンスはけっこうあるものなんですよね。
で。この「ばあちゃんのポエム」という本が、
どういう経緯で出版されることになったのか、
そして、その本を作っていく過程を、
やはりテキスポにて「担当編集者」さんがリアルタイムで綴られています。
1冊の本を作るというのは本当に大変なことで、
でもだからこそ「歓び」は大きくて、
読んでいると、なんだか一緒にわくわくします。
こちらもとても面白いので、ご興味のある方は、ぜひ。
[ばあちゃんのポエム]書籍化日記(担当編集者さん)
http://texpo.jp/texpo_book/toc/1618/

覚醒する [2008年07月21日(月)]

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一昨昨日(さきおとつい)のこと。
いつもは横になったとたん、真っ逆さまに眠りに堕ちていくのに、
なぜか、なかなか眠れない。
ようやく睡魔の尻尾をつかまえて、束の間うとうとするものの、
はっと驚いたように目が覚める。
目ざめたとたん、覚醒している。
こんなに、いきなりはっきりとするなんて滅多にないことだから、
どうしたんだろう、と不思議に思う。
夜明けにはまだ間がある、眠らなければ、と、目を閉じる。
何度も寝返りを打ちながら、ようやくうつらうつらして、
また、はっとして覚醒する。
その繰り返し。
まるで、眠りそうになったとたん水をかけて起こすという拷問みたいだ。

そのうち、首筋から肩のあたりがパンパンに張ってきて、
もう寝ていることに嫌気がさし、明け方に起き出して朝の風に吹かれてみる。
前夜までは肩が凝っているという自覚もなかったから、
どうやらこれは血圧があがっているせいらしい、とようやく気づく。
と言っても、ふらつくこともないし、ひどく気分が悪いというわけでもないので、
ものすごく高い、というほどでもなさそうだ。
子どもの頃からずっと低血圧だったものだから、
少しあがっただけで、こんなふうになってしまう。

日中も、目元だけはしょぼしょぼと眠たいのに、
意識だけは妙にきっぱりと覚醒している。
いつになく、何もかもがクリアだ。
なんだか、これはあれに似ている。
そう、初めてメガネをかけたとき。

高校の身体検査で「仮性近視」と診断されて、
半信半疑で眼科に行き、生まれて初めてメガネを作ることになったのだった。
検査用の黒くてごついゴーグルのような器具の丸枠に、
かちゃりと「レンズ」がはまったその瞬間。
世界は、一変した。
モノの輪郭も、色合いも、向かい合うヒトの瞳も、
あまりにもクリアなものだから、なんだか少し怖くなった。
今まで居た世界が、どこかに消えてしまったみたいだった。

いつもは低く這いつくばっているような血圧が、
ひょいっと高くなったせいで(たぶん)、
頭の中が妙にクリアで、ぱきんと覚醒しているその感覚は、
初めてメガネをかけたときと、どこか似ていた。
人の言葉や自分の声の輪郭が尖っていて、少し怖い。
何を言っても考えても、なぜか「紋切り型」になってしまうような気がして、
とりとめのない想いの中を、ぼんやりと漂ってなどいられない。

この状態こそが、覚醒している、ということなのだろうか。
もし、そうであるのなら、あたしは今まで目ざめてはいなかった。
ずっと、半覚醒の中にいた。
だとしたら、あたしはなんと曖昧な世界の中で生きてきたのだろう。

そういえば。
高校の時に初めて作ったメガネを、あたしは結局使わなかった。
レンズ越しの、あまりにクリアな世界になかなか馴染めず、
いつもケースにしまったまま、机の隅に置いてあった。
気まぐれにかけてみることがあっても、
見える景色と同じように、自分もきっぱりきっちりせねばならぬようで、
ひどく疲れてしまうのだった。
0.5と0.7という、中途半端な仮性近視だったから、
授業中に黒板の字が見えなくて困るというほどではなかったし、
運転免許も取らなかったから、そのまま掛けずに今日まで来た。

見えないわけではなく、よく見えるわけでもない。
そんな視力でモノを見て、
目ざめていないわけでもなく、きっぱりと覚醒しているわけでもない。
そんな意識の中で、生きてきた。
だからこんな、とりとめのない思考回路になったのだろうか。
白黒つけることよりも、どっちもありだと思うような、曖昧な人間になったのか。


あがっていた(らしい)血圧は日毎に少しずつさがっていき、
首や肩の張りも薄れていった。
昨夜はもう痛みもなく、いつものように横になってすぐに眠りに堕ちた。
いくつかの、とりとめのない夢を見て、
目ざめたときには、からだ半分を夢の中に残したままだった。
いつもと同じように、夢とうつつの狭間を漂いながら、
馴染み深い世界に戻ってきたことを、ぼんやりと知り、
秘かに安堵したのだった。

---------------- 8×キリトリセン ----------------

いつものあたしの覚醒パターンといえば。
夢を見ながら寝ている→少しずつ目が覚める→夢とウツツをさまよう
→目を開けてぼうっとする→ようやく起き上がる→座ったままぼうっとする
→少しずつ目が覚める
と、こんな調子なものだから、いきなり、ぱきーんと覚醒してしまうと、
もう辛くて仕方がない。なんだか気が狂いそう、とさえ思えたり。

結局、我が家の貴公子ならぬ気功師ミメオ(いや別に本職じゃないんだけど、
なぜかプロ並みの腕前)によるマッサージのおかげで、
首や肩の痛みもしだいに取れていき、
それにつれて血圧も正常(低め安定)に戻ったようで、
ようやく、いつものぼんやりとしたあたしに戻ったのでした。
めでたし、めでたし。

って。
良いんだか悪いんだか?(笑)

あ。でも最近は遠視寄りになってきた(老眼ともいう)ので、
たまにメガネをかけたりします。
小さな字を読むときとか、繕いものをするときとか。
背に腹は代えられない、という言葉を実感するお年頃。
ふふふ。

賞賛・「篤姫」少女漫画説 [2008年07月14日(月)]



「篤姫」のことを書こう書こうと思いつつ、
どのタイミングで書くべきか迷っていたのだけれど、
今日のオンエアで取りあえずひと区切りであろうから、書いてみようかな、と。
が、しかし。実は、今日の放送はまだ見ていない。
もちろん録画してあるのだけど。
すぐにも見たいようであり、見たくないようでもあり。
だってだって。家定が死んじゃうなんて嫌だ〜(泣)

元々あたしは堺雅人という役者が好きだったけれど、
それは独特の雰囲気を持ったちょっと変わった役者ということであって、
男性として好みのタイプというのではなかった。
なのに、この家定をやっている堺雅人は、
男としてめちゃくちゃ魅力的に見えてしまう。
いったい、それは何故なのか。

毎回そう考えていて、ある時、ふいに、あ、と思った。
そうか、この「篤姫」は、ある意味「少女漫画」なのだな、と。
と言っても、少女漫画が悪いわけではない。
そのこと揶揄しているわけでも、けなしているのでもなくて。
ただ少女漫画の定石ともいえる――女子が胸キュンを覚える――ツボを、
ものすごく上手く押さえてあるのだ。
そう考えると、すべてがすとんと腑に落ちる。

婚礼の儀まで、なかなかたどり着けない焦れったさ。
日に日に募る、上様への興味。
が、その上様は、「うつけ」という噂。
美しい側室(=ライバル)お志賀の、
うつけであろうとなかろうと構わない、あたしは上様が好きだから、という宣言。
(ここで初めて篤姫は「好き」という恋心を知ることになる)

そして、ついに問題のシーン。
噂を鵜呑みにするのではなく自分の目で確かめたい、という篤姫が、
家定と共に庭ではしゃいでいるうちに、よろけて橋から落ちそうになる。
あ、と思った家定は、その一瞬、迷う。
ここで篤姫を助ければうつけではないことがばれてしまう。
が、次の瞬間、仕方がない、と、迷いを振り切り、
そのとたん、さっと腕を伸ばし、篤姫を抱き留めて、抱き寄せる。

たったこれだけの短いシーンで、しかも台詞は一切ナシ。
なのに、このときの堺雅人の演技に、
思わず、どきっとしてしまった女子(?)は多いはず。
(実際、このシーンは話題になり、
 WEBにも「胸キュン」という言葉が飛び交っていた・笑)
この胸キュン事件(?)で、視聴者(特に女子)の視線は、
一気に家定に向かっていく。
ここからは、二人を引き離そうとする姑との小競り合いもあり、
特命を担っているゆえの苦悩もありながら、
二人はしだいに信頼を寄せあうようになる。

うつけだと思っていた男が、実は聡明すぎるほど聡明な男で、
しかも、たくさんの悲しみを背負っていて、
美しい恋のライバルがいたにも関わらず、
男は、自分だけに心を開き、本当の姿を見せてくれるようになる。
しかも、ふたりの関係は最後までプラトニック。
これぞ、少女漫画の定石、恋の方程式でなくて何であろう(笑)

しかも、男はただ頭がいいだけではなく、
何事においても意見を求め、きちんと耳を傾けてくれて、
ちゃんと自分のことを「人」として「女」として「認めて」くれている。
これって、現代における「女にとっての理想の男」なのではなかろうか。
これがただの「俺についてこい」的な男であったら、
いくら魅力的な男であっても、現代の女達の賛同は得られなかったかも。

娘時代の篤姫は、聡明で意志も強く自由奔放で野心もあり、
という、この時代にしては(いや現代においても)アッパレな女子で、
結婚するなら「日本一の男と」と、
堂々と(しかも清々しく)宣うようなキャラである。
その篤姫が、自分が担った重大な使命を翻してでも、
「徳川家の為に生きる」と思うようになっていく。
そのことを視聴者に納得させるためには、
家定がそれに価するような魅力的な男に見えなくてはならない。
自分の意志をしっかりと持った篤姫のような女が、
この人の為に生きようと思うようになるのだから、
家定は篤姫にとっての「日本一の男」だと誰もが納得しなくてはならないのだ。

その為には、少女漫画のようなきっちりツボを押さえた道筋が必要だった。
でありながら、それが少しも陳腐でもなく幼稚でもなく、
少しのあざとさも感じさせない。
そのことが、何よりもスゴイと思う。
それはやはり、脚本、演出、役者のすべてが、絶妙だったからだ。
じっくりと焦らず丁寧に、細かいところまで手抜きをせず、
ひとりひとりの人物をきっちりと創り上げてきたからこそ、
ここまでの説得力が生まれたのだ。

時に、サスペンスドラマのようなカメラワークや音楽になったり、
これはコントか、と突っ込みたくなるような演出もあったりして、
その遊び心も、スタッフや役者が楽しんで創っているように思えたり。
面白いドラマというのは、全てが良い方向に転がっていくものなのだな、
と、つくづく思う。

さて。
家定亡きあとは、どうなるのか。
これからは篤姫に一気に視線が集まるようになるのだろうから、
それもまた見物ではある。

あるのだけれども。
もう家定に会えないなんて、淋しすぎる〜。

連載エッセイ「無花果」 [2008年07月13日(日)]

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いつもの散歩道に、わさわさと繁っている無花果。
まだまだ青い。
八百屋さんには、もう赤紫の無花果が並んでいるけれど、
あれはやっぱり栽培モノなのだろうなぁ。
そういえば、
子どもの頃、無花果は店で買うものではなかった――、
というエッセイを、「おとなのコラム」に書きました(笑)
エッセイ・ノスタルジアの中の「無花果」です。
縦書き文庫は、コチラ

今回は祖母のことを書いたのだけれども。
祖母のことを書くと、いつも話がどんどん広がっていきそうになるので、
ちょっと四苦八苦。
でも我が専属編集者(=ミメオ。あたしが書いたものに対して、
毎回厳しいチェックを入れるので我が家ではこう呼んでいる)にも、
珍しく(?)お誉めいただいた(笑)
苦労して書いたかいがあった、かも?
ということで。
お時間のある時にでも読んでいただけると嬉しいです。
ぜひぜひ。

なか杉こう詩集「自作おにぎり」 [2008年07月12日(土)]

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先日、ココでもご紹介した、なか杉こうさんの詩集「自作おむすび」。
その詩集を実際に手にしてから、もう幾度となく読み返している。
なので今日はあらためてもう一度、この詩集について。

かつて、ポプラ社が主催している「作品市場」というサイトがあった。
自分の作品(詩や小説やエッセイや童話等々)をアップして、
登録者同士感想を書いたり、編集者の評が載ったり、という、テキストサイト。
あたしもそこに作品を登録していて、
時間を見つけては他の参加者の作品をできるだけ読んでいた。
その時、一番最初に、あ、これ良いなぁ、と思ったのが、
なか杉こうさんの詩だったのだ。
その後、これも又今は無き(伝説の?)「ゴザンス」というテキストサイトで
一緒になり、そこでもこうさんは変わらぬ目線で詩を書かれていた。
この詩集は、そのゴザンス時代に書いた詩をまとめたものである。
が、もちろんゴザンス以降も、こうさんは詩を書き続けている。
こつこつと、日々詩を紡いでいる。

そうなのだ。
こうさんは、まるで日記を書くように日々詩を生み出している。
日記を書くように、などというと、
どこかお手軽な、ヒトリゴトの延長のような詩を思うかもしれない。
が、こうさんのそれは、まったく違う。
難しい言葉ではなく、耳に馴染んだ言葉で書かれてはいるけれど、
そこに綴られているのは、日記でもヒトリゴトでもなく、
カラダの中から生み出された、紛れもない「詩」なのだ。


     きゅうり


 元気? と聞かれて
 元気 であるはずもなく
 返答につまる。
 元気でないと 答えられようか
 それこそ思うつぼ
 ふんふん ふんふんなんて
 共感されて
 ふと
 心は空へ飛ぶ
 歌が聞こえる
 たまたま入った
 小さな飲み屋
 これからあたしは
 元気でない話を
 しなきゃあなんない
 きゅうりを噛む
 この人はきゅうり好きなのだろうか
 じぶんでなみだがでるほどの話は
 人にとってはなんでもない
 だから
 しかけて やめて
 しかけて こわされ
 何百回
 またきょうも
 あきらめの
 きゅうりを噛んでいる
 心はとっくに 天井に飛んでいて
 
 

この詩にかぎらず、作者は、誰にとっても身近な風景の中にいる。
誰にとっても覚えのある光景、出来事。
が、それらを、こうさんの目を通して見てみると、
とっくに忘れていた何かが、ふいに立ち上がってくる。
何かが甦ってきて、あ、と思う。
あの時、たしかに感じていたはずの何か。
立ち止まらずに通り過ぎ、そのまま置き去りにしてしまった何か。
そういうものが、ひょいっと姿を表わす。
だから読みながら、そうだ、そうだった、と、ひとり頷き、
時には、ちくりと刺さる何かにはっとして、時には、ふふっと笑みをこぼす。

「けふはほんとうに」という詩に、こうさんはこんなふうに書いている。

『詩は パソコンの奥の奥の奥の奥に
 しまってしまった。
 おそらく 永劫に 出てこないに違いない
 詩。
 捨てるには 忍びなかったのだ 自分の子供みたいなものだからね詩は。

 世の中には
 気づかなくていいことが沢山あるのだ
 と 女はこの頃思う
 だから

 けふはいい天気だ
 腰をのばし 洗濯でもしよう。』

世の中には気づかなくていいことがある、と言う作者は、
誰よりもずっと、色んなことに「気づいて」しまうのだろう。
誰もが見過ごしてしまっていること、
見て見ぬふりをして通りすぎてしまうことを、
こうさんは言葉にしてそっと差しだす。
それが、なか杉こうさんの「詩」なのだ。
そうやって見てみれば、詩は日常のそこかしこに潜んでいるのだ、と、
あらためて思う。

こうさんは、それを静かに掬いとり、手のひらの上に広げて見せてくれる。
ぐいと、強く突き出したりはしない。
だから、たとえそれが悲しみであっても、怒りであっても、どこか優しい。
覚えのある感情に、はっとすることがあっても、嫌な気持ちになったりしない。
よしよしと頭を撫でてもらっているようにさえ思えて、ほっと安堵する。

「けふはほんとうに」という詩は、こんなふうに続いていく。

『人は年をとると
 しだいに忘れっぽくなるのは
 心配しなくていいようにとの
 天のはからい。

 けふは ほんとうに。

 洗濯物が よく 乾くだろうね 』

「捨てるには忍びなかった」という「詩」を、
いつまでも捨てずにいてほしいと思う。
あたし達の見過ごしてしまっている日常の中の詩を、
これからも、そっと掬いあげていってほしい、と心底思うのだ。

---------------- 8×キリトリセン ----------------

詩というものには、ほんとうに様々なスタイルがある。
詩には詳しくないので、系統立てて説明することもできないし、
きちんとした解説も解釈もできない。
でも、読み手にとっては、そんなことはどちらでもよくて、
ただ、好きだと思う詩を好きなように感じて読めばいいのだと思う。
少なくとも、あたしはそうやって読んでいる(笑)

その様々な詩の中には、
日常の言葉で綴られた「分かりやすくて読みやすい」という詩があって、
WEBでも数多く見かける。
が、そういうものはどちらかというと「詩のようなもの」であって、
カラダの中から生み出した、紛れもない詩というのにはあまり出会えない。
歴とした詩でありながら、誰もが共鳴できる何かを持っている、
そんな詩って、ありそうでなかなかないものなのだ。

時に巷で話題になるような、分かりやすくて読みやすい詩というのは、
どちらかというとメッセージ性の強いものが多くて、
かえって自由に読めないような気がすることがある。
そこへいくと、なか杉こうさんの詩は、自由だ。
そして誰にとっても身近に感じることができる詩だ。
もしかしたら、こういう詩を待っているヒトは多いのではないか。
詩集は、商業ベースにのせるのが難しいといわれるけれど、
(コンスタントに商業出版されている詩集といえば銀色夏生さんくらいしか
思い浮かばない)なか杉こうさんの詩は、それができるのではないか、と、
あたしは秘かに(?)思っていたりする。
ご本人は、あたしなど、と、いつも謙遜されるのだけれども。
ということで。出版社のみなさん、ぜひご検討を(笑)

↓amazonからも購入できるようになりました。
自作おむすび―詩集 著者 なか杉こう
挿絵・表紙 あべようこ (別名 蒲公英さん)
かまくら春秋社 1260円(税込) 頁数 200頁

なか杉こうさんのブログは↓こちら。
「こう・ストーリーズ」http://kohnakasug.exblog.jp/
--------------------------------------
そういえば、ゴザンス時代のこうさんの詩を、
「サイトから取り入れ整理してお送りくださった」のが、やはりゴザンス
ライターだった蒲公英さんで、それでこの詩集が生まれたのだという。
たぶん蒲公英さんも、この詩をこのままWEBに埋もれさせておくのは
もったいない、と、強く思われたのだろう。
こうさんの詩の力が、そうさせたのだとも言える。
あたしもずっと、こうさんの詩を沢山のヒトに読んでほしい、と
思ってきたけれど、こんなふうに形にできる蒲公英さんって素晴らしい。
こうさんのファンとしても、感謝、です。

*ちなみに、引用させてもらった詩「きゅうり」は、
IEでは縦書きになっているはずですが、
Firefoxでは横書き表示になってしまいます。
もし変なレイアウトになっていたら、ごめんなさい。
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